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三枝タミの物語 外伝:三枝美恵子の章

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Byhslre

前書き
「三枝タミの物語 外伝:三枝美恵子の章」はタミちゃんのお母さんがお父さんと結婚したいきさつの物語です。
時間軸で言うと本編の中編の途中のお話になります。
コメント欄でも少し説明しましたが、バツイチのお母さんが、なぜあんなにお金持ちのお父さんと結婚できたのか。
本編中ではとんとん拍子に話が進み疑問に思った方も多かったのではないかと思います。
そのミッシングリンクを埋めるお話です。

登場人物:

三枝美恵子・・・本編の主人公。前夫の残した借金のため、貧困にあえぐ看護婦。娘と二人暮らし。

三枝タミ・・・美恵子の娘。「三枝タミ」の物語の主人公。聡明で明るく、優しい心の持ち主。小学4年生

麻布翔太・・・東京で起業して会社を大きくして地元に凱旋していた若き成功者。バツイチで子持ちの三枝美恵子に近づいてくるが・・・・。


三枝タミの物語 本編

三枝タミの物語(前編)

三枝タミの物語(中編)

三枝タミの物語(後編)

三枝タミの物語 あとがき
病院で督促されるお母さん
職員「困るんだよね・・・三枝さん。市立病院の看護婦は市の職員なんだから、こんなに給食費を滞納されると・・・」

美恵子「申し訳ありません。来月には必ずお支払いしますので・・・」

職員「もう半年も同じこと言ってるよね?」

美恵子「申し訳ありません。」

クスクスクス
周りの看護婦が悪意に満ちた忍び笑いを漏らす
「三枝さん、また給食費滞納してるんだ」
「子供がかわいそうよねえー」
「子供って言ってもあの北村の子供でしょ」
そんな小声が聞こえてくるがいつものことだった。

私は死んだ夫の残した借金を返すために困窮した生活を送っていた。
一人娘は小学校でこれからいろいろとお金が入用になってくる。

女の細腕一人で育てるのはいろいろと厳しかった。
私の父と母は前の夫のあまりのだらしなさにあきれて絶縁を言い渡されていた。

給料日の前は食べるものがなくなり、娘と二人で小麦粉を水に溶かして砂糖を入れたものを飲んで飢えを凌いだ。

そんなギリギリの生活をもう数年送っている。

そんな私の前にあの人は現れた。

数人の職員と市の幹部が一人の男の人を案内している。

私は物珍しさからそちらを見た。

職員「ん?、今年からうちの市に事業所を開設してくれた〇〇社の社長だよ。市長と会食した後、職員の案内でわが市の施設を案内してあげてるんだ。あなたみたいな給食費を滞納するような不良職員とは別世界の人間だね。あの人の前でこんなみっともない話はできないから、もう下がってくれる?あなたみたいな人がいるって知れたら、うちの町の恥だ。」

職員「来月こそちゃんと払ってね」

美恵子「はい。申し訳ありません。来月は必ずお支払いいたしますので」

私は弁解のしようもない言われように、みじめな気分を味わいながら、言われた通りに看護婦の詰め所に下がった。

ちらりとその男の人を見ると、高級なスーツに身を包んだその姿はとても輝いて見えた。

看護婦A「ねえ見た?〇〇社の社長。まだ20代ですってよ。それでもうあんなに大きな会社にしたんだからやり手なんでしょうねえ。」

看護婦B「見た見た。この辺にはいないちょっといい男よねー。実はうちの町の出身なんですってよ」

看護婦C「じゃ、私にもワンチャンあるかもー」

看護婦A「あるわけないでしょ。会社に帰ったらいい大学を出た若い秘書に囲まれているに決まってるわ。」

看護婦C「わかってるけど、夢を見るくらいいいでしょー」

若い看護婦たちが先ほどの男の人の話をしていた。

どうやら、東京で会社を作って成功し、地元に支社を開設して凱旋してきたらしい。
なんでもうちの町出身らしかった。
〇〇社といえば新興市場に株式を上場して、連日新聞やテレビをにぎわせているIT関連の急成長企業だ。
地元のケーブルテレビのニュースは録画され、病院も含めた職員全員が見るように通達がなされていた
大手の外食産業と提携し、ITを使った新しい決済のシステムをこの町で実験店舗を作ってテスト運用する予定だそうだ。
どれほどきらびやかな世界に住んでいるのか。
本当に私なんかとは別世界の人間だ。

私の死んだ夫はいろいろなところで不義理を働いて、町の人からは忌み嫌われていた。
そんな夫と結婚したのは、夫に無理やり関係させられ、今の娘を身ごもったからだ。
気が付いた時には堕せないところまで来ていた。
夫は最初はまともな人に見えた。
しかし、残忍で狡猾で冷酷な裏の顔を隠し持っていて、暴力と恫喝と娘を人質にとる形で私を支配した。
私は軽く洗脳されていたのだと思う。
夫の言いなりだった私だが、ある「事故」で夫は死んだ。
葬式には娘と私以外は誰一人来なかった。
夫の親族すらも来なかったのだから、どれほど嫌われていたかわかるだろう。
夫から多額の金をだまし取られた私の父と母は夫が死んでも許してくれなかった。

私よりかなり若い看護婦Cが私に命令する「ちょっと三枝。下に行って今日届く備品取ってきてくれる?」
こういうのは本当は業者がやるのだが、私は夫が働いた不義理で上の人たちからも嫌われており、こんないじめのような嫌がらせをされても黙認されていた。

美恵子「わかりました。取ってきます」

全員がくすくすと笑う。いつもこのような感じだった。

反論はするだけ無駄だ。私は下に降りて備品の箱を受け取りに行った。
備品を搬入してくる体格のいい男の運送業者に交じって箱を持ち上げる。
かなり重い。

私はろくに食事もままならない生活を続けていたので、力が入らず思わずよろける。
すると、トイレから出てきた男の人が私を支えてくれた。

男の人「おっと危ないですよ。看護婦さん。おや、ずいぶん重いですね。運んであげましょう」

美恵子「ありがとうございます。」

私はその男の人の顔を見ると、それは先ほど市の職員と幹部に案内されていた男の人だった。

市の職員「麻布さん。そんなことはする必要ありませんよ。」
どうやらこの人の名前は麻布というらしかった。

麻布「いやいや、男が一度やるといったのですから、これだけは運びますよ。」

市の職員は困ったような顔をしていた。

美恵子「いえ、こんなことをお願いするわけには。」

麻布「気にしないでください。女性には優しくしなくては。ん・・・おや、貴方は・・・」

麻布さんはわたくしの顔をじっと見た。

美恵子「はい・・・?」

麻布「いえ、なんでもありません。」

麻布さんは市の幹部に待ってもらって荷物を私の代わりに運んでくれた。

美恵子「ありがとうございました」

私は麻布さんにお礼を言った。
麻布さんは市の職員に連れられてすぐに出て行った。
しょせん別の世界の人間だ。
もう2度会うこともないだろう。

話題の若社長の実物を見て看護婦の詰め所には黄色い声が上がっていた。

しかし、私に命令した若手の看護婦Cは眉を吊り上げて私を責めてくる。

看護婦C「ちょっと三枝。あんたふざけてるの?。何来客に荷物持たせてるんだよ」

美恵子「すいませんでした。」

看護婦C「今後は気を付けなよ」

私はこんな風に日々を過ごしていた。
今の私にとっては娘がすべてであり、娘の成長だけが唯一の楽しみだった。

娘のためなら、どんなにつらい日々でも耐えられた。
あの人に会うまでは。

私は昼休み、お金が無くて弁当すら作れず昼が食べられないことがあるので、休憩スペースで一人で休んでいることが多かった。
そこに麻布さんはやってきた。

麻布「こんにちは看護婦さん」
美恵子「麻布さん。今日もこちらにいらしていたのですか?」
麻布「ええ、いかがですか?一緒にお食事でも」
美恵子「いえ、私はもう済ませましたので」

私は目立たぬようにそそくさと休憩室を立ち去ろうとすると、入り口で看護婦Cに「三枝さあ、男に色目使ってる余裕があるならちゃんと給食費払いなよ。娘がかわいそうじゃん」彼に聞こえるようにわざと大きめの声で私を揶揄した。
私は真っ赤になりながら慌ててその場を立ち去った。

それきり彼の姿を見かけなくなった。
看護婦Cから給食費の滞納の話を聞いてあきれたのだろう。

そして、次の給食費の支払日、また恥をかかされると覚悟していた督促は来なかった。

同僚の看護婦は
「今日も三枝の督促ショーが見られるかな?」
「それがさあ・・・あいつ払ったらしいよ?。全額一括で払ったんだって」
「うっそー。あの貧乏神が?」
そう言っているのを偶然立ち聞きしてしまった。
私は私も知らない事実を他人の口から聞かされて驚いた。
もちろん給食費は支払ってないし、支払うお金もない。
私は休憩中に市の窓口に問い合わせた。
「ああ、三枝さん?。ご主人さんから電話があって金額と振込先を教えてくれと言われて全額一括で振り込まれましたよ。今後、気を付けてくださいね」
私はお礼を言って電話を切った。

一体だれが・・・いや、今の私を助けてくれる人なんて一人しかいない。
麻布さんだ。
私は麻布さんの会社の電話番号を調べて連絡を取った。
会社の電話番号は有名な企業だったので調べたらすぐに分かった。
私の名前を告げて、携帯を持ってないことを説明すると秘書の方は電話を保留にして、しばらくして彼の携帯番号を教えてもらった。
そして、彼の携帯に電話をかける。
彼は給食費の話をすると、「ああ、気にしないでください。もし、気になるのでしたらどうでしょう?木曜日にちょうど用があってそちらの町に伺いますので、ご一緒に食事でも。」

もちろん私には断る権利はなかった。
なぜなら、返す当てが全くなかったからだ。


麻布氏の車に乗るお母さん
そして約束の日、私は彼と待ち合わせして、彼の車に乗ってこじゃれたレストランで食事をとった。

食事のあと、私は彼の車に乗り込んだ。
この後どうしたらよいか私も小娘でないのでよくわかっている。
私は麻布さんの手を握って胸に手を当てた。
私たちはそのままゆっくり見つめあうと唇を重ねた。

しかし、家では娘が待っている。
このまま、女でいるわけにはいかない。
私は麻布さんに娘が待っているからと言って、そのまま車から降りて家へ帰った。
麻布さんに求められることはわかっていたが、こうしたのは毎日の貧乏生活ですり減った女としての最後のプライドがささやかな抵抗をした結果だろう。

麻布さんは車で送ると言ってくれたが、固辞した。
麻布さんは絶対に私を求めていたはずだ。
それに答えられなかった以上、甘えるわけには行かない。

そして、次の週の木曜日も麻布さんは私に会いに来てくれた。
先週の逢瀬の時に娘の話を持ち出して女としてのプライドを守るためにささやかな抵抗を試みたが、私はこの時すでに覚悟を決めていた。
私は娘に夕食を作りおきして、「お母さんは遅くなるから」と言って出てきていた。
その日、私は麻布さんに自分から抱かれた。

給食費は返す当てがなかったし、私にはほかに払えるものは何もなかった。
たった数か月分の給食費のために売春婦のように体を売るのはみじめだった。
いや、本音を言えば私は「抱かれたかった」のだと思う。
夫が亡くなってから数年、私は誰にも頼ることもできず、たったひとりで娘を育ててきた。
前の夫の悪評は千里を走りこの町で私たち親子にかかわろうとする人は誰もいなかった。
娘は友達こそできないようだが、前夫に暴力を振るわれていたのは周知の事実だったので、特に虐めなどには遭ってないようだが、いつ風向きが変わるかわからない微妙な立場にいることは間違いないだろう。
私が波風を立てれば、一気に矛先が娘に行くかもしれなかった。
毎日の冷たい視線や悪意の嘲笑を一人で耐えるには世間の風はあまりにも冷たすぎた。
ほんのわずかなぬくもりでも感じていたかったのだ。

もちろん大会社の若手社長が私みたいな子持ちのおばさんを本気で相手にしてないのはわかっている。
おそらく、みじめな珍獣を見つけたので情けで恵んでくれているつもりだったのだろう。
しかし、どんなにみじめに感じても今の私たち親子にとって麻布さんのもたらしてくれる恵みは大きかった。

麻布さんにとってはほんの気まぐれ、金額も彼にとっては小銭にも満たないくらいの感覚だろう。

しかし、そのわずかな金額のために私はきゅうきゅうと働き、娘におもちゃの一つも買ってやれず、それどころか三食食べるにも困っていた。

次の週も麻布さんは私に会いに来てくれた。
私は一度だけのつもりだったので、娘が待っているからと断るつもりだった。
しかし、麻布さんは食事だけでもと私を懸命に説得し、私は熱意に折れる形でその日も麻布さんに抱かれた。
いや、私は期待していたのだ、
なぜなら、その日も娘には遅くなるからと、夕食を用意して出かけて来ていた。
それでも最初の一回はプライドを守るために断ったが、一旦彼のもたらしてくれる恵みを受け取ってしまうとあとは坂道を転がり落ちるように卑しい期待するようになっていった。
いつもなら、もう食費は底をついているところだが、私は麻布さんの好意に甘える形で食費を節約出来ていた。
娘は給料日直前になってもちゃんとしたご飯が食べられるようになったので、笑うことが多くなり雰囲気が明るくなった。

私は麻布さんと逢瀬を重ねて、やがて麻布さんは娘にお土産をくれるようになった。
お菓子やコンビニのおにぎりなどだ。
娘は私が麻布さんに会う日を「お菓子の日」としてカレンダーにつけるようになり、楽しみにするようになった。
この時期になると私は「娘のため」と自分に嘘をついて、麻布さんと積極的に会うようになっていた。

私は麻布さんに夢中になった。
麻布さんはいつか私に飽きて、私のもとから去っていくのだろう。
あれだけ社会的な地位を持ってる人だ。
子持ちのおばさんである私とはほんの遊びのつもりなのだろう。
それでもいいと思った。
前の夫の暴力にさらされて、恋もろくにしてこなかった。
そんな私でも少しくらい夢を見てもいいだろう。
もちろん夢はいつか覚める。
その日が来ることをなるべく考えないようにして、私は自分をだまし続けた。

そんな日々をしばらく送って、私は麻布さんに執着するようになっていった。
遊ばれていることはわかっていたが、どうしても麻布さんを手放したくなかったのだ。
携帯電話があればいつでも連絡が取れるのに・・・
私だって、若いころはたくさんの男の子に告白された、ちょっとしたものだった。
今でも化粧して、ちゃんとした服を着れば・・・
私はいつしかそう思うようになっていった。
麻布さんの運転する高級な外車の助手席に乗り、彼の生活水準が垣間見える食事をすることによって私の感覚はどんどん変わっていった。
彼と一生付き合えるわけではない。こんな分不相応な贅沢になれることがどんなに恐ろしいことか私はこの時忘れていたのかもしれない。
いや、無理に考えないようにしていたのだと思う。
私はこのころ、麻布さんと会う前の日になると我慢できずにトイレで娘に隠れて自慰するようになっていた。
そして娘の後ろ姿を見て、「この子さえいなければ・・・」娘の首に思わず手を伸ばして、そう思ってることに気が付いた時、私はもう限界だと思った。

私はその日の夜、自分の浅ましさに情けなくなって涙を流した。
私は次に麻布さんに会った時、別れを告げようと決心した。



しかし、麻布さんと待ち合わせて彼の顔を見たとき、あれほど思いつめて決めたはずの私の決心はあっさりと崩れ去った。
「絶対にこの幸せを失いたくない」私はもう完全に母親から一人の女になっていた。

そして、その日の情事のあと、彼の腕に抱かれながら、「来週大事な話がある」といわれた時、私の胸は大きく高鳴った。
何もかもかなぐり捨てて、今すぐ彼の元に走ってしまいたい。
私のわずかに残った母親がその気持ちをギリギリのところで抑えることに成功した。
奇跡だった。

お菓子の日を満喫するタミちゃん
私がその日家に帰ると娘のタミにお土産を渡し、娘は大喜びで「お菓子の日」を満喫していた。
そして、お菓子を食べ終わると一冊の大きなアルバムを持ってきた。
「このおっきいご本は見ていい?お母さん」
それは高校時代のアルバムで私は娘に「いいわよ」といった。
娘は夢中になってアルバムをめくっていた。
「ねえ、お母さんはどこにいるの?」
私は自分の写真を指差した。
娘は「お母さんは昔から美人だったんだねー。タミうれしい」
そういってはしゃいだ。
しかし、私の目はあるページに釘付けになった。
そこには一人のぱっとしない少年が映っていた。
覚えがある。昔、私はこの少年に告白され、あっさりと断った。
その写真の下には「麻布翔太」と書かれていた。
私は目の前が真っ暗になった。

私の中で全てがつながった。
なぜあれほどの金持ちで将来有望な成功者の若手社長が私のような女のところに来たのか。
彼は私に昔の復讐するつもりだったのだろう。
親からも見捨てられ貧困と悪意の視線にさらされて昔とは見る影もなく落ちぶれている私を見て、ほくそ笑んでいたのだろう。
そして、蜜のような甘い夢を見せてどっぷりと依存させ、離れられなくなったところで捨てる。
「大事な話」とはこのことだったのだ。

しかし、私がこの時に抱いた思いは「恥ずかしい」ではなく、「彼に捨てられたくない」だった。
私は完全に都合のいい女に堕とされていた。
彼の復讐は大成功を遂げるだろう。
来週私は彼に昔のことを責められ、さんざん罵倒されてあっさりと捨てられるだろう。
しかし、私は彼を憎むことも嫌うこともできない。
それどころか、惨めに足にすがりついて泣きわめくかもしれない。
彼に依存し続けて、一時は娘を捨てることすらも考えていた私には女としても母としても一かけらのプライドも残っていなかった。
私は彼を失うことを想像して娘の前だというのにまるで子供のようにみっともなく声を上げて泣いていた。
娘はずっと私を心配したが、私は何でもないと言ってごまかした。

お母さんを抱きしめるタミちゃん
娘はこのみじめな母親の心配をして私をぎゅっと抱きしめてくれた。
一時は娘を捨てることさえも考えたこの母親失格の最低の女を娘は抱きしめて見捨てなかった。
私はその夜自分のあまりの卑しさとみじめさに一晩中泣き続けた。

次の日、私が病院に出勤し、更衣室で着替えていると、看護婦Cが「バツイチで子持ちのくせに年甲斐もなく発情してる貧乏神って見苦しいよな。どうせそのうち捨てられるのに。」そう捨て台詞を吐いて出て行った。
私が彼に捨てられるのは時間の問題だ。来週には看護婦Cの言ったとおりになるだろう。
そんな風にバカにされても私には怒りや悔しさではなく、ただひたすらに「彼に捨てられることの恐怖」が頭を支配していた。
私はぎゅっと唇をかみしめてうつむいた。

そして運命の日、彼はいつもの待ち合わせ場所に現れた。私は彼の顔を見ると腰が抜けたように動けなくなった。
彼を失うことの恐怖で体がすくんで動かなかった。
そこまで恐怖しながらも彼に呼び出されれば応じずにはいられない。
彼と出会って付き合うようになってからほんの少ししかたっていないが、彼はもう私のすべてになっていた。
この人と二度と会えない人生なんて、死んでいるのと変わらない。
これから死刑を執行される死刑囚はこんな気分なのか。
いや、彼にとっては屠殺場に連れていかれる家畜のようなものだろう。
彼の目が「この豚は明日の朝には肉になってお肉屋さんの店先に並んでいるんだな」そう言ってるように思えた。

私たちはいつも通りに夕食を食べるためにこじゃれたレストランに行った。
席に座った私の顔は真っ青になり体は震えていた。
しかし、彼は予想に反して懐から黒い箱を出して箱を開けた。
箱には指輪が入っていて、彼は私に「結婚してほしい」とプロポーズした。
彼は昔のことなんて何とも思ってなかったのだ。
ただ純粋に私と付き合い、私を愛してくれていたのだ。
私は自分の考えのあまりの卑しさにみじめな気分がこみ上げてきた。
そして涙を流しながら、娘が前の夫に暴力を振るわれ、大人の男性を怖がっていることを説明し、彼のプロポーズを断った。

私は自分の考えのあまりのみじめさにいたたまれなくなって逃げるようにその場を立ち去った。
こうして、私は自分の卑しさから、2度と手に入らないかけがえのないぬくもりを失った。
私は自分に絶望していた。
いっそ死んでしまいたかった。
その思いを家でたった一人待っているはずの大事な娘を思って心に押し込めた。
きっと娘を捨ててしまおうと考えた私のあさましい心を天の神様が見ていて、私に天罰を下したのだろう。
母親であることを一時でも忘れ、捨てようとした私にはふさわしい天罰だった。

私はその日、娘にもう「お菓子の日」はなくなることを告げた。
娘はとても残念がったが、聡明で優しい子なので聞き分けてくれた。
明日からはまた悪意に満ちた瞳と陰口から娘を守るためにたった一人で戦わなくてはならないのだ。
どんなに世界が悪意に満ちていてもどんなに救いが無くても、私にすべてを忘れさせてくれた彼の優しい腕はもう二度と戻ってこないだろう。
贅沢なんてできなくていい、何も手に入らなくてもいい。
ただ彼の笑顔を見ながらあの腕に抱かれて安息のひと時を過ごせたら・・・ほかには何もいらない。
私は彼がくれた恵みや贅沢な食事ではなく、あの温もりや笑顔が欲しかったのだ。
しかし、恋に狂って大事なものを見失い、母親であることも放棄した私にはそれが見えなくなっていた。
私はあまりの喪失感に自分が消えてなくなってしまうのではないかと思うほどのむなしさを感じた。
そうして勘違いした痛いおばさんの恋は終わった。
いや、私が自らの手で壊してしまった。


・・・はずだった。
彼は、多忙なはずなのに次の日も私の前に現れ、真摯な態度で私に接し、一生懸命私を説得した。
そして、「今度はタミちゃんと3人で食事に行こう」そう言ってくれた。
彼のまっすぐな瞳と誠実な言葉には嘘はない。
一点の曇りもない真摯に輝く瞳は暴力に支配され、貧困と悪意にさらされ続けた私が遥か昔に捨ててきたものだった。
私は彼の手をしっかり握ってもう2度と離さないと心に決めた。
そして、来週、彼と娘と一緒に食事に行く約束をした。
今日はうちに帰ったら今度こそ彼のように娘の顔をまっすぐに見て、話をしようと思った。
私はよき母親であることもよき恋人になることもできなかった惨めな女だが、昔は持っていたはずの彼や娘のように穢れのないまっすぐな気持ち思い出しながら、もう一度最初からやり直そうと誓った。
そうするには遅いかもしれないが、遅すぎるということはないはずだ。


「三枝タミの物語、外伝:三枝美恵子の章」終わり
「三枝タミの物語」本編へ。

お父さん&お母さん結婚式
お父さん&お母さん結婚式2




三枝タミの物語 本編

三枝タミの物語(前編)

三枝タミの物語(中編)

三枝タミの物語(後編)

三枝タミの物語 あとがき
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Comments 2

きにちみ  

美恵子さんの苦境が際立つとはいえ、それにしても職場には誰一人としてまともなヤツがいないんですね~
これだけ美人なら職場に一人は言い寄ってくる男もいると思うのだが、そうすると話がややこしくなるし、来たところで拒絶したでしょうかね。
麻布さんの行動に対して「昔ふられた腹いせに上げるところまで上げて最後は突き落とすのではないか」とか思ってしまうところから、恐らく男恐怖症とでもいうものにでもなっていたかもしれないですし。
大昔に振られたことを根に持ってそんな回りくどい復讐する男なんてさすがにいませんよ~と途中で美恵子さんに言いたくなりました。

というわけでこれで話は完結ですかね。
とにかく美恵子さんもタミちゃんも一生分の幸運を使ってしまったぐらいのパパに合えてよかったです。
というより、その前に一生分の不幸を経験してしまったのでこれで差し引きゼロですか。
キャラの皆さん、またゼロから少しずつ幸福を積み重ねていってください。

タミちゃんは都合により今は一人暮らしのようですが、成長したその後の話とか勝手に期待したりしてます。^^;
最後に、北村は生き返らせてもう一度殺してもらってもいいですか?

2018/03/08 (Thu) 11:37 | EDIT | REPLY |   

hslre  

Re: タイトルなし

> 美恵子さんの苦境が際立つとはいえ、それにしても職場には誰一人としてまともなヤツがいないんですね~
> これだけ美人なら職場に一人は言い寄ってくる男もいると思うのだが、そうすると話がややこしくなるし、来たところで拒絶したでしょうかね。
> 麻布さんの行動に対して「昔ふられた腹いせに上げるところまで上げて最後は突き落とすのではないか」とか思ってしまうところから、恐らく男恐怖症とでもいうものにでもなっていたかもしれないですし。
> 大昔に振られたことを根に持ってそんな回りくどい復讐する男なんてさすがにいませんよ~と途中で美恵子さんに言いたくなりました。
>
> というわけでこれで話は完結ですかね。
> とにかく美恵子さんもタミちゃんも一生分の幸運を使ってしまったぐらいのパパに合えてよかったです。
> というより、その前に一生分の不幸を経験してしまったのでこれで差し引きゼロですか。
> キャラの皆さん、またゼロから少しずつ幸福を積み重ねていってください。
>
> タミちゃんは都合により今は一人暮らしのようですが、成長したその後の話とか勝手に期待したりしてます。^^;
> 最後に、北村は生き返らせてもう一度殺してもらってもいいですか?

作中でも書きましたが、人のうわさは千里を走るという奴ですね。
田舎住まいの私にとってはこれはかなりリアルな話なんですけどね(笑
都会の人にはわからないかも。
上にいる特定の人に嫌われたら終わりです。
田舎のいじめは凄いですよ。
犬にまでさん付けするくらい気を使わないと(笑

麻布さんの昔話についてもネガティブな思考に入ってる人というのはこんな感じだと思います。
だからますます落ちていくんだと思います。

2018/03/08 (Thu) 12:16 | EDIT | REPLY |   

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